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白つつじ公園物語

白つつじ公園物語:画像


 長井市には、大きな公園が二つあります。市街地南側には白つつじ公園、北側にはあやめ公園があって、それぞれに深い歴史があります。白つつじ公園は俗称で、正式名称は松ヶ池公園といい、現在では都市公園です。住民のどのような想いが公園造りに駆り立て、真っ白に染まる風景をつくりだしたのでしょうか・・・
 
区民が造りはじめた小出公園
天明3年(1783)  花作の豪農鈴木七兵衛が凶作にあえぐ農民救済のため、屋敷内に築山を築き、琉球種の白つつじを植栽。
明治初年まで  皇大神社境内を小出公園と言っていた。
明治17年  この年から翌年にかけて、小出区民が公園づくりをはじめる。
明治22年  小出村と宮村が合併、長井町となる。

 
七兵衛つつじの移植と創設
明治24年  町会議員の横山孫助の発起で小出公園を拡張、一町八反七畝余(約1.87ha)の田圃を買収。花作の鈴木七兵衛家の琉球種白つつじを譲り受ける移植を計画。
明治29年  琉球種の白つつじを町の中心部にも植えようと横山孫助を中心に、大規模な公園拡張と整備が始まる。桜苗木は仙台の釈迦堂より求め、鈴木七兵衛翁が育てたつつじの古木の一部分を譲り受け移植する。
  この年、初めて松ヶ池公園の名称が用いられる。松ヶ池公園の名付け親は水戸藩士であった立原和愛。松ヶ池公園の創設となる。

明治30年  松ヶ池の東南に築山を築き、日清戦争の記功碑(征清記念碑)を建立。南陽市の吉野産で高さ4.7m、幅2.54m、厚さ0.8mの花崗岩。船で最上川を運ばせた。長井町招魂碑とも呼ばれている。篆額は「義勇奉公」の四文字、陸軍大将大山厳の書、碑文は東宮侍講三島毅、書は有名な巌谷修(号を一六居士)。

明治39年  松ヶ池公園に大砲の砲身を立てた西置賜郡招魂碑を建立。明治37年38年の戦没者の慰霊碑。青銅製の砲身を中央の礎石に立て、文字は浮き出し金色。碑の台座は底辺八間四方、高さ二間、上面二間四方、周囲を砲弾型の鉄柵で囲んだ珍しい構造。台座の周りにケヤキ・マツ・スギ・イチョウ・ヒノキを植え、「五訓の森」と称した。

 
       
明治41年  10.17の日付が入った「長井町宮公園」「長井町松ヶ池公園」の絵葉書が残る。
  この年から3カ年計画で松ヶ池公園の東西、南に築山を築き、公園整備する。東、南、西の堤も築かれ区画も方形となった。



 
 
植栽されている当時の「七兵衛つつじ」

明治43年  七兵衛つつじのすべてをもらい受け、移植する。
以来、白つつじの名所として宣伝され正式につつじ公園の名を用いるようになった。
大正6年   松ヶ池公園に演芸館開館。演芸館は、大正5年山形市で開催された奥羽六県連合共進会の会場に東京の建築技術者の手によって設計、建築された近代的構造の木造演芸館を譲り受けて、公園北側中央に建設した。



大正14年撮影  演芸館

大正12年  松ヶ池公園ひょうたん池のほとりに、小出生まれの俳人・川崎玄子の句碑を建立。玄子は幕末の著名俳人。句は「三つのうち 一つ小さし 初なすび」



大正15年  西置賜青年クラブが演芸館で盛大な発会式を行う。
昭和2年   演芸館で模擬置賜(県)会を開催。
 町営電気事業が好転、つつじあやめ両公園や市街の要所に高燭電気灯が無料で点灯。松ヶ池に新たな「八千代橋」架かる。



       

 渡り初めの記念写真

旧八千代橋

昭和8年   つつじ公園に隣接するカフェ「新春」開店。
  演芸館で長井音頭・長井小唄作曲舞踊発表会を開催。レコード同日発売。
昭和10年  演芸館で「東海林太郎アトラクション」を興行(レコード販売店、呉服商が中心)。
昭和12年  昭和12年のポスター。デザインに、明治39年に建立された西置賜郡招魂碑
が入れられている。
       
 園内が増産畑に
昭和18年  太平洋戦争によって、西置賜郡招魂碑(明治39年建立)を金属回収令により供出、台座も取り払われた。
昭和19年  松ヶ池公園が、戦争の食糧事情悪化で食糧増産畑となる。が、芝草の平坦地だけが畑となり、四周の土塁や築山、そこに植えられたつつじには手がつけられなかった。
昭和31年  白つつじ音頭つくられる。作者は石川歌柳。
       ハァ  おらが長井はつつじの名勝 咲いた咲いた
               小出小出と神明さんが招く 咲いた咲いた
ハァ  土手は一面つつじの花よ  咲いた咲いた

                くも無いので何方も御座る 咲いた咲いた
ハァ  松ケ池から西山見れば   はやしはやし
               雲の間に雲の間に朝日の景しき  はやし
ハァ  白いつつじの根種の元は  咲いた咲いた
     植えてしめした宥日様が  咲いた咲いた
ハァ  つつじ名勝はかづ有るけれど  白いつつじは東洋一よ  咲いた咲いた
ハァ  長井文化と孫助様は 公園改築なされた御人  咲いた咲いた
ハァ  花を作りし七兵衛様が 築山つくりと世に名を残す



当時のポスター

あら町のゲート

昭和32年  ポスター。あやめと白つつじ合同。
  
     
昭和33年  白つつじ公園は、様々な用途に使われた。写真は、畜産品評会。

 
      
昭和34年  松ヶ池公園に忠魂碑を建立。長井市中央地区遺族会による。日露戦争、満州事変、日支事変、大東亜戦争の戦没者の英霊を弔う碑。
昭和35年  五訓の森に白龍山人菅原白龍先生碑を建立。
昭和36年  児童遊園地を作る。



       
昭和33年  長井駅前の歓迎塔。

 
     
昭和40年  長井市忠魂碑建立。戦没者芳名の碑。終戦20周年を記念して長井市中央地区遺族会が建立。高さ4.5m、幅1.9m、厚さ0.35mの安山岩。中央地区の戦没者の指名を13段に記録した。1段に20名から25名の刻名がある。
昭和49年  演芸館解体される。
       南東部に長井市民文化会館建設される。
昭和51年  武道館建設。
昭和53年  長井小学校南西に設置されていた「横山孫助胸像」が松ヶ池北東に移転設置。




       
(昭和34年ころの写真 長井小学校西南隅に再建 この胸像は二代目で、一代目は長井町役場入口に昭和5年10月に建立  その後昭和18年7月、戦争激化による金属回収令に応召したが、昭和29年11月に二代目として再建  原型が保存されていたことから復原できた)

昭和55年  市民の木「つつじ」、市民の花「あやめ」が決定。
昭和56年  長井市立図書館建設。
昭和57年  都市公園事業として整備。図書館東側の整備やパーゴラ、東屋、つつじ館を作る。
昭和60年  第1回白つつじマラソン大会開催。
昭和62年  グリーンやまがた110景に入選。記念碑を建立した。


 
      
平成2年  オアシスタウン構想により新しい噴水など大規模に改造。
平成6年  七兵衛つつじ(古種仕立)27株が市指定文化財となる。
平成14年  ポプラが強風で倒木。

 
 
 
文学碑について
※1・2・3が平成19年に公園へ移設
1真壁仁詩碑が翠雲山房から移設  昭和56年建立。毎日出版文化賞受賞。

2吉次歌碑が翠雲山房から移設  昭和56年建立。アララギ派、斉藤茂吉文化賞受賞。

3家子夫歌碑が翠雲山房ら移設  昭和56年建立。アララギ派、斉藤茂吉文化賞受賞。

4中山きりを歌碑        昭和62年建立。長井俳句会会長。


公園整備の推移
明治26年

備倉:安永3年(1774)に米沢藩が整備した倉庫跡  俗に「お備倉」という

昭和36年

 
昭和58年

 
 
現在

 
 

2013.06.19:[ながいの花新着]

(一財) 置賜地域地場産業振興センター

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