記名に歴史ロマン
獅子頭の裏に記名がある。
長井の獅子頭の裏側は見えないにも関わらず、見える表と同じ様に綺麗に仕上げられている。
そこには獅子頭の制作した年月日、神社名、彫り師、塗師を書き入れるのが通例となっている。
そこは軸棒が取り付けられ細かい字を書き入れるのは誠にめんどくさい。
とくに成田の獅子頭は特別で、制作年月日の他に総代五六名、角力名、獅子連中二十名、先払い五六
名、彫り師塗師と半端でない人数となる。
狭い場所にこんな大勢の文字を書く事は稀で、コレだけの手間と技術料の価値は悲しいかな重要視さ
れていない。
さて、成田の獅子頭に「稽古獅子」と呼ばれている獅子頭があり、この度当工房で修理を行った。
ちょっとしたヒビの修理と、開けてみてビックリ。
平成元年に修理記録があり、その時に鼻の数カ所に鉄板を入れ修理していた。
鉄板絆創膏でも30年も持たせたのだから大したものだ。
それらを除去し、ガラス繊維とポリエステル樹脂による強化プラスチックで固め補強した。
昨日の引き渡しの際、記名の話になった。
記名については赤外線撮影で、大規模に修理の際、現在表記なっているものを塗りつぶし
同じものを書き直ししていると判断していた。
その中に気になるものがあり、うっすらと調べていた。
「奉寄進 丹州岩瀧 糸井品蔵 」である。
調べてみると丹州は京都の丹波地方。岩滝はその与謝野町。
それ以上発展せず放置していたのだが、成田の角力の飯沢氏が深く刺さって調べてきたのだ。
さすが成田の角力!!
記名にもある「宿 佐々木忠右エ門」は成田で養蚕絹糸で財を成した豪商で最上川舟運で
京都に絹を運び栄えたのだ。そこに丹州岩滝の謎を解く鍵があった。
糸井氏は京都の絹糸問屋糸井織物で、絹で儲けた財力を獅子頭の奉納で還元したのだった。
また記名には「彫工塗師 齋藤藤三郎 山田伊七 菅野吉太郎」とある。
齋藤藤三郎は齋藤仏壇の初代だが、後の二名は聞いた事が無い。
しかし、山田や菅野の姓はこの辺でも良く聞く苗字だ。
もしかすると、京都や他所で作らせた可能性ありだ。
成田八幡神社で最古の獅子頭は平吹市之丞の作と伝えられている。
もし、二代目の獅子頭を作るとすれば、その獅子頭をモデルにするはずであると疑問を抱いていた。
その疑問が解決した。
有力者がタッグを組みトップダウンした・・奉納だったのだ。
受け入れ側の多少の大きさや表情の違いのこだわりは四の五の言えるものではなかったのだろう。
そう考えてみると作者が固定せず「稽古獅子」と称されてしまったのは獅子頭にとって浮かばれない
のかも知れない。
いやぁ〜記名の中に歴史ロマン有りである。